ご覧になった方も多いのではないでしょうか。
殺処分をされたことは素直にかわいそうなんですけど、麻酔薬で眠らせてからの殺処分(この言葉すごく嫌ですよね、まるでいらないものを処理するというイメージで)、安楽死のようです。。。
いちばん哀れなのは、まだ少し体力があったであろう時点で柿が食べたかったという、生き物としては当たり前のことが叶わなかったということ。
人間でも亡くなる前に言い残したいことはないか、何か食べたいものはないかとか、心残りを聞かれたりすることがあります。
でもこのツキノワグマは弱り、極度にお腹もすいていたのでしょうけど… 叶わなかったんです。
そりゃ実際怖いわ
ツキノワグマは寿命15年のところ、この大きなメスは12歳程度のご老体だったので、病気か寿命で衰弱していたということ。
ツキノワグマの出没は頻繁で、確かに住民の方々にしてみたら、いつどこで野生の巨体グマに出会うかわからない、日々のストレスがおありだと思います。
このクマが横たわっていたお家の方も、かわいそうだなと思うと同時に、どうしていいかもわからず、もし侵入されたらと恐ろしい思いをされたかと思います。
パンク町田さんやハンドパワーで猛獣を眠らせることのできる方の家だったら、結果も違っていたかもしれませんけど、普通はやっぱり怖いですよね。
様子をみていても動かないので最終的に安楽死をさせました(殺処分ではなく安楽死と解釈しております)。
考えた末に出した結論で、普通の感覚をもっていればかわいそうだと思わなかったはずもなく、住民の安全を守るのに仕方なくそうせざるを得なかったんだと思いますし、大変だったと思います。
野生生物と人間との遭遇は
野生生物(動物だけではなく虫などのケースもあるのでこの言葉を使います)と人間との遭遇は虫や野鳥の大群、カラスに始まり、サル、ハクビシン、タヌキ、イノシシ、クマなどと大型化していきますが、根本的な問題は、元々の住環境を人間が自分たちのいいように開発したことですよね。
自然環境を、いうなれば地球環境を破壊してきたからです。
少しでもこの問題をストップすべく、尽力されている方々もいらっしゃいますが、山に植林をしても最初は杉で、育った後は花粉の大量飛散でアレルギーの問題が出てきてしまい。
植林をしても、実のなる木や野生生物にとって食糧になる種類はあまり植えられませんよね。
植えても多くは人間視点で、ゆくゆく人の役に立つものという考え方に成り立っていると思います。
ツキノワグマは雑食性なのでなんでも食べますが、特に冬眠前の秋は大量に食べるといいますね。
この安楽死させられたツキノワグマがここまで育ち、生きていくためにはどれほどの食糧が必要で、困難があったことか。。。
冬眠をしない生き物たちはそれはそれで、食べ物の実らない厳しい冬でも食べ、生き抜かなければなりません。
そもそも冬眠するはずのツキノワグマも、最近はお腹がすいてしまったり暖冬傾向で冬眠できないといったことも増えています。
山にいる野生生物が、わずかな食糧では足らず、むしろ『それよりもおいしいもの』を『食べたいだけ食べている』人間界にやってくるのは当然といえば当然ななりゆきです。
それでも例えば農家さんの場合は作物を育て売ることを生業とされているので、荒らされるということは、苦労が水の泡になり死活問題になりますから対策をしないとなりません、戦いです。
この、山の生き物と人間とのせめぎあいを解決するのは大変難しく、それこそ綺麗事では済まされない現実があります。
表面的なことだけじゃなく根本にあるものは。。。
記事へのコメントは『殺処分はかわいそうだ』という抗議に対しそれは綺麗事で、それなら引き取って最期まで面倒をみればいいという意見が見受けられました。
かわいそう、と思うこと自体は綺麗事などではなく、人として当然の優しい感情で理解はできます。
ただ、安楽死に対して『かわいそうだから抗議した』というのは現実を考えるなら、少し行き過ぎかなと。
助けてあげれぱよかったのに、助けられれば、誰でも思いますよね。
でも相手は野生な上、巨体の猛獣、しかも相当なお年寄りで衰弱も激しい。
野生の生き物がヘタに人間の保護を受ければストレスになることも、それだけで弱ってしまったり命取りになることもあります。
捕まえて山に返してあげたとしても、十分な食糧は自力では得られず、今回のこの状況ではおそらく長くは生きられないと思います。
たまたまこのようなことが起きてしまったため、苦しみを長引かせず安楽死という方法が、必ずしも『よくないこと』ではなく『救い』であることもあります。
なので、行動に出して町に抗議するということに私は疑問です。
今回のツキノワグマのように、やむを得ず安楽死、当座の方法としては致し方ないと思いますが、起きたこと自体は表面的なこと。
根本はどうしてそれが起きたのか、ではないでしょうか。
人の住むエリアまで野生の生物がやってくるのはなぜか、農家さんの作物が荒らされるのはどうしてなのか。
答えはさきほども書きましたが、私たちが住み処や食糧を彼らから奪っていったからです。
さまざまな批判や抗議をする前に、根本的なことを考えることが先なのではと思います。
地球の破壊されつつある自然環境を少しでも改善できる方法はないのか、と。
少しでもできることは
そのように根深い原因があるとはいえ、確かに自分の生活環境の枠内で、大きな組織に属して地球規模で改善するなんてことはできませんし、私も環境を壊した側の人間で、環境破壊の恩恵を受け、暮らしています。
でもゴミをなるべく減らす、できるだけ分別する、カラスに狙われにくい方法で出す(カラスの生態を知ればわかることもあり)、迷惑にならない程度で野生と接する、自然界のゴミを拾う、自分の使った人工的なものは必ず持ち帰り適切にゴミとして出す、薬剤をなるべく使わないようにする、環境改善に対して費用を寄附する、ボランティア活動、など個人でもできることは、小さいけれどありますよね。
ぶっちゃけ、これはただの自己満足で、結局地球の自然環境をよくする、守るなんてことはできないかもしれませんけど、それでも継続し、やらないよりは『少しはマシ』だと私は思っています。
さまざまな批判というもの
特にコロナが始まってからはウサ晴らしのように暴言や利己的なコメントを書かれる方も多くなり、Yahoo! ではA.I.でコメントを制御しておりますね。
それほど酷いことを書かれる方がいらっしゃるからでしょうけど。。。
ネット世界でなくても、現実世界でも、このようなことは時々見受けられます。
それだけストレスの多い世界に私たちはさらされてしまっている、ということなんですよねぇ。
他者を批判するのは、よい評価をする(他者を認める)よりもずっと簡単なことで誰でもできますが、自分は正しい、間違った意見はいってない、正論だと胸を張っていることが実は偏った利己的な考え方だった、ということもよくあることですよね。
正しいと信じきっていたことが実はそうではなかった、ということもありますが、それに気づかない、変えないというのは、自身に疑問をもたない、省みることをしない、考えようとしないからではないでしょうか。
投稿などはある意味ストレス解消になるのかもしれませんが、誰かを(人だけでなく野生の生物や植物でも)思いやること、話をちゃんと聞くこと、それは人の心のありようとして失ってはいけない大切なことだと思います。
もちろん、すごく不愉快な人間や心根の悪い人間も一定数はどうしてもおりますので、そのような方にはそのように対処していいのではと思います、こちらも人間ですので(笑)
自分たちさえよければ・自分の価値観のみで物事を判断ではなく、いろいろな方向からみようとする柔軟性・多面性、それらが忘れられがちになっている社会だと感じます。
人間の長年のそのような考え方が、結局のところ環境悪化を促しているとも、いえるかと。
考え方の視点を変えてみると、見えなかったものが見えてきたりもしますし、客観性(自分でも他人の意見でも)は本当に大事です。
差別や拝金主義、利己的、他者攻撃、まるでボーダーを超えるような優越が徘徊する世の中は、人間にとっても野生生物にとっても、やはり住みにくい世の中です。
それが社会的に弱い立場の人、生き物なら、なおさら。
人間に山を奪われつつあるツキノワグマたちは現在のこの世界で、どう生きていけばいいでしょう?
弱かったり、貧しかったり、困っていたりする者たちに向けられる目は、正直あまり優しくありません。
この哀れなツキノワグマに最期だけでも、お腹いっぱい柿を食べさせてあげたかった… そう、思います。
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